2011年4月3日日曜日

それぞれの幸せ

中島らも氏の「君はフィクション」中の短編「DECO-CHIN」を読んで感じた。
この作品中で音楽雑誌の編集者はフリークスばかりのバンドのライブを偶然見て,自分も友人に頼んで四肢を切断してもらいフリークスとなってバンドに参加して幸福を得るのだが,普通の「幸せ」以外に「それぞれの幸せ」が有ると思わされた。

下世話な話だが政治家は「お金と利権に名誉」が幸せなのだろう。そう感じる。
ミュージシャンには「成功と賞賛,そしてファン」が幸せなのかな?。ミュージシャンには様々な取り組みをしている方々がいらっしゃるので一概にこうとは決められない。

私がスポーツマンだった頃は,毎日のプラクティスとトーナメントや夜の一杯で幸福感を味わった。

更に自分の子供の頃は好きな本を耽溺している時が幸せであった。

佐藤大輔氏の小説では,日英合同艦隊に迫る魚雷に対して何気なく「仕事するかぁ」と呟いて偵察機で体当たりし艦船を守る日本人パイロットが出て来る。彼に対し英国士官が「どんな勲章でも足りない」と賛美していたが,そのパイロットにとっては「船を守る事が幸せ」だったのだろう。命を失ってもである。

さて「普通の幸せ」とは何だろう。

一般的日本人にとっては「良い学校を出て、優良企業に就職し、恋愛から結婚に至り、家庭を守って子供を育て上げて、自分の様な人生を歩かせ、大きな病気にもならず人生を全うする」事か?。

そんな人々は他人の噂が大好きだったり地位を求めたり,自分の幸せに気付かず不平不満を垂れ流す事が多い。

今はインターネットが有るので,不平不満を垂れ流すのは簡単だ。そんなブログや掲示板もいくらでもある。

そんな物は読むには値しないが,数が多いのは確かだ。そしてそんな人々は群れる。
群れた平凡人というのも気持ち悪いが結構仮想世界では力があるらしい。
仮想世界なんて物は幻影なのだが,そこでしか自分を主張出来ないのだからしょうがないのか。

一方、発展途上国において幸せとは何だろう?。
地球上で靴を履いているのは人口の1/10であるが裸足の彼らは靴なんか無くても食べる事,飲む事,愛する家族がいれば幸せだという。

インドでは自分の子供の手足を切断し乞食をさせて家庭の収入としている者もいる。あの人達の幸せは?。

宗教に依存している人々には各宗教の戒律を守る事が幸せだったりもする。
イスラム教の方々は一日数回はメッカの方向に向かっての祈りの時間が無いと幸せになれないらしい。東京モーターショーの会場でも見受けられた。

マンハッタンの宝飾品街でも見たが真っ黒な服装に、伸ばした髭面で黒い帽子を被った原理主義者(ファンダメンタリスト)さん達は,やはりその宗教の戒律を厳密に守って生きるのが幸せなのだろう。

一緒にしては失礼だが日本国内の新興宗教信者はお布施を寄進し教祖に言葉をもらい活発に信者を増やす事が幸せらしい。端から見ると喜劇だが。

「心の拠り所」がどこにあるかで幸せの規準も変わる。

それが「宗教」であったり「家庭」であったり「名誉・地位」であったり「作品」であったり数え切れない。

学生なら「たっぷり眠れて学校も休みな日」が幸せだったり,会社員も同じ様なものだったり,フリーランスだと「仕事がスムースでペイも良い」のが幸せだったりする。

人生を幸せにする要素は沢山ある。

家庭、仕事、宗教、娯楽(飲酒含む)に大別されるだろうか。

どれが一番という事も無い。それぞれに一番の幸せがあるのだ。
それが他人からは馬鹿らしい事でも,本人が幸福を感じるのであればそれが幸せ。

極端な例でヲタクさん達の幸せも理解は出来ないが犯罪にならない限りは自由だろう。
他人の幸せは許容し,自分の幸せを守る。それが私の幸せかな。

つまり「それぞれの幸せ」は「人間の数だけある」とも言える訳で新聞やインターネットでは解らない事だというのが結論になった。

こんな事を考えられる休日の朝の時間も幸せなのだ。

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